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ABOUTスローガン(「明⽇」新美南吉)

スローガンについて

明日はみんなをまっている。
泉のようにわいている。
らんぷのように点ってる。

この言葉は、愛知県半田市生まれの児童文学作家である新美南吉が、1932年の19歳に発表した詩「明日」の一節です。29歳という短い生涯の中で『ごんぎつね』をはじめとする、人間の哀しみの中にある愛や美しさといった普遍性を描いた作品を創作した南吉ですが、その中でもこの詩は「創造」への希望を託しています。AICHI⇆ONLINEでは、この一節を明日へと向かうための創造の意志=スローガンとして掲げています。

明日新美南吉

花園みたいにまっている。
祭みたいにまっている。
明日がみんなをまっている。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまっている。

明日はさなぎが蝶になる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまっている。
泉のようにわいている。
らんぷのように点ってる。

(初出:『赤い鳥』赤い鳥社 1932年10月)

明日への希望を託した詩

遠山光嗣新美南吉記念館館長

人類はこれまでにも多くの感染症と闘ってきました。

新美南吉が5歳から7歳の頃にはスペイン風邪が世界中で猛威を振るい、戦後に特効薬が普及するまでは常に結核が日本人の死亡原因の1位でした。

南吉もまた早くから結核に苦しみ、29歳7か月で亡くなりました。4歳の時に亡くなった実母の死因も結核だろうと言われています。

当時、有効な治療法がなかった結核に罹れば死を意識せざるを得ませんでした。南吉は20歳で初めて喀血していますが、その兆候が表れた日の日記には「死ぬのは嫌だ。生きていたい。本が読みたい。創作がしたい。」(1933年12月6日)と怯える気持ちを綴っています。

結核の辛さは死の恐怖だけではありません。他人に感染させてしまう心配、職場を追われる不安、そして人々から避けられる孤独感も深刻です。

実際、南吉のふるさと半田市岩滑の年輩者からは、「畳屋(南吉の生家)の前は息を止めて通った」という話が聞かれます。また、亡くなる間際の南吉が安城高等女学校の同僚教諭に宛てた手紙では、皆が僕の病気を毛嫌いするなかで、あなただけは分け隔てなく接してくれたと感謝の気持ちを伝えています。

新型コロナウイルスの感染拡大以来、患者を出した家庭が世間から厳しい目を向けられ、患者を救うために必死に働いている医療従事者の子どもが差別を受けているという報道を目にします。

自分だけは、家族だけは助かりたい、そう思ってしまう弱さは人間誰しも持っています。しかし、その気持ちをむき出しにして誰かを責め立てれば世の中は分断されてしまいます。南吉はそうした人間の弱さを描き、この世を「無限の闇」(「蛍のランターン」1935年)に例えました。その一方でランプや蛍を好んで描いたのは、その小さな明かりに、煩悩に囚われた〝無明長夜〟のような人生を照らす希望を託したからです。

その〝小さな明かり〟とは、ひとりひとりが自分のエゴの深さを見つめること、そして生けるものが等しく持つ命の尊さ、美しさに気づくことでした。そうすれば、互いに尊重しあう明るい未来を信じることができる、と考えたのでしょう。

そんな南吉の明るさが表れた作品はいくつもありますが、なかでも希望に満ちているのが、今回のプロジェクトのスローガンとなった「明日」でしょう。19歳のときに児童雑誌『赤い鳥』1932年10月号に入選した詩で、ロゴになっているのは4聯のうちの最後の1聯です。

ここにも南吉が希望を託した小さな明かり「らんぷ」が登場します。「泉」は、汚れたこの世にあって純粋で美しいものを表現したいという、南吉の創作に対する姿を象徴しています。

困難な世の中にあっても、未来はきっと美しく希望がある。そんな未来=「明日」がみんなを待っている、と南吉は言います。だから私たちは、立ち止まって明日を待つのではなく、いまを生きて未来に向かって歩き続けることが大切なのです。